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迫る東京オリンピック!今こそ、あの「パクリ疑惑」のモヤモヤを解消する(3)

前回の記事では、東京オリンピックのエンブレムに対して

ドビ氏が「著作権」を根拠に使用停止を求めたこと、

そして、ドビ氏にとってはそれが勝ち目の少ない戦いだったと書いた。

今回は、なぜドビ氏が勝つ可能性が低かったかを説明したい。

 

今回の記事を読めば、

著作権について「パクリか?パクリでないか?」の区別を

自分で出来るようになるだろう。

 

著作権的に「パクリ」とは?

ドビ氏側の主張は

東京オリンピックのエンブレムは、

 ドビ氏のデザインしたロゴマーク著作権侵害である」というものだ。

では、「著作権侵害」とはどういう状態のことか?

作者が直感的に「あ!似ている!パクられた!」と思ったら、

その全てが著作権侵害になるのか?

当然そんなことはない。

そんなことを許すと、世の中が大混乱になる上、誰も新しい作品を作れなくなる。

著作権侵害か?そうでないか?」の線引きをするためのルールが必要だ。

そしてそのルールはすでに確立されている。

「自分の作品の著作権が侵害されている!」と言うためには、

以下の3つの条件全てに当てはまらないといけない。

 

1.そもそも自分の作品が「著作物」である。

2.相手が自分の作品を見た上で制作した。

3.自分の作品と相手の作品が似ている。

 

この3つのうち、どれか1つでも当てはまらなければ、

それは著作権侵害とは言えない。

自分の作品が著作物と言えるような作品でなければ

著作権侵害だ!」なんて言うのはそもそもナンセンスだ。

相手が自分の作品を見たことがなければ

前回の記事で書いたように「仕方のないレアケース」なので問題ない。

仮に見た上で作ったとしても、

相手の作品が自分のものと似ていなければ、当然、侵害にはならない。

 

この3つの要件は、誰にでも納得できるものだと思う。

実際に世界中で認められている考え方なので、

日本だろうが、ベルギーだろうが、他の国であろうが、

基本的には同じ考え方で判断される。

 

今回のエンブレムのケースについて、この3つの条件を当てはめて考えてみよう。

 

最大の難関 著作物か?

ドビ氏の立場から考えると、3つの要件のうち最大の難関が1つ目の要件だ。

「そもそも自分の作品が「著作物」である」と言えるのか?

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ドビ氏の作品は上記の通り、

アルファベットの「T」と「L」の文字を組み合わせたものを円形で囲ったものだ。

これは著作物だろうか?

この作品の一番の特徴はアルファベットの表現に仕方にあると思われる。

そこで、文字のデザインに関して参考になる2つの裁判を挙げたい。

 

タイプフェイス事件

まずは「タイプフェイス事件(最高裁2000年9月7日)」から。

フォントとは「明朝体」や「ゴシック体」のような、

文字の書体デザイン一式のことだ。

そのフォントを開発する企業が、別のフォントの企業を訴えた。

「我々の書体は著作物だ。その書体をマネされた!」といって。

 

これが、その企業の開発した「ゴナU」というフォント。

そしてこれが、「真似した」とされる「新ゴナU」というフォント。

どうだろうか?

これは「著作権侵害」だろうか?

 

裁判所はこれを「著作権侵害ではない」と判断した。

そしてその理由は

「そもそもフォントは著作物ではないから」というシンプルなものだった。

最高裁判所の判断だから、ものすごく重たい判断である。

 

もちろん、フォントのデザインに価値がないと言っているわけではない。

数千個もある文字の一つ一つのバランスを根気よく考え、

より読みやすくデザインするデザイナーの地道な努力が、

我々の活字文化、情報社会を支えている。

 

しかしそれは、「著作物」ではないのだ。

前回の記事で書いたように、著作物とは、小説、美術、音楽、映画のように、

鑑賞対象になるような文化的な創作物のこという。

もし小説を読む人がフォントを鑑賞し、「なんて美しいフォントなんだろう!」と

いちいち感動していては、肝心の小説の内容が頭に入ってこない。

むしろフォントは、フォントそのものの存在を意識させず、

文章の内容をストレスなく読む人に伝えることを機能としているのだ。

そして、その機能が高いフォントだからこそ、著作物にはなれない。

フォントは、実用品であって、芸術作品ではないのだ。

 

逆にいうと、装飾の沢山ついたフォントで、

フォントの本来の機能を果たさない(つまり、とても読みづらい)フォントであれば、著作物として認められる可能性は高くなる。(私は使いたくないが)

 

「文字」というものは本来、人間同士が気持ちを通わせるために生まれたもので、

人類全体で共有すべき財産だ。

その利用を制作者に独占させてしまう著作権の制度とは、致命的に相性が悪い。

 

Asahiロゴデザイン事件

つづいて、「Asahiロゴデザイン事件(東京高裁1996年1月25日)」について

見てみよう。

ご存知「アサヒ・スーパードライ」のアサヒビールが、

米穀・雑穀を販売するアサックスという会社のロゴマークを「著作権侵害だ!」と

訴えた事例だ。

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これを見て、あなたはどう思うだろうか?

かなり❝パクリのにおい❞を感じるのではないだろうか?

 

しかし、裁判所の判断は、「著作権侵害ではない」というものだった。

理由は、上記タイプフェイス事件と同じで

「そもそもアサヒビールのロゴは著作物ではない」というものだ。

裁判官の言ったことを大まかにまとめると、

「デザインに工夫があるのは分かるけど、

 それでも美術の芸術作品と同レベルとは言えない」ということだ。

 

もちろんこれも、ロゴのデザインに価値がないと言っているわけではない。

フォントと同様に、

ロゴマークも出来るだけシンプルに読みやすく表現する必要性が高い。

「アサヒ」と読んでもらえないと、アサヒビールも困ってしまう。

だからこそ、著作権には馴染みづらいものなのだ。

 

この2つの裁判例を見て分かったことをざっくりまとめると、こうなる。

文字のデザインは、著作物としては、ものすごく認められにくい。

 

ドビ氏のデザインは著作物か?

ここまで読んできたあなたなら、もう判断できると思う。

ドビ氏のデザインは著作物だろうか?

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そう、著作物ではない。

 

このデザインの中心は、「T」と「L」の文字をデザイン化したものに過ぎない。

確かにデザイン上の工夫はしている。

しかし、これは

「デザインに工夫があるのは分かるけど、

 それでも美術の芸術作品と同レベルとは言えない」というものだ。

 

ドビ氏はこう言うかもしれない。

「「T」と「L」の字を重ね合わせて、「T」の横棒の右側を反転させた。

 こんなの誰にも思いつかない!だから素晴らしいんだ!」

しかし、これは単なるアイディアに過ぎない。

アイディアは著作物ではないのだ。

 

もしドビ氏側が裁判で戦うことになった場合、

この第一の関門「そもそも自分の作品が著作物である」ということを証明するのに、

とても苦労することになるだろう。

そして、その証明に失敗しただろう。

万一、著作物だと認められたとしても、第二、第三の関門が立ちふさがる。

 

佐野氏は見たことがあったのか?

第二の関門は、

「佐野氏がドビ氏のデザインを見た上で作品を作った」と証明すること。

これもかなりの難関だ。

 

リエージュ劇場は、ベルギー国王が設立した施設に起源をもつ歴史的な劇場なのだが、このエンブレム騒動が起きる前にその存在を知っていた人は、

日本に何人いただろうか?

ましてや、そのロゴマークを見たことがある人となると、

ほとんどいなかったのではなないかと思う。

あなたは

ウィーン国立歌劇場ルーヴル美術館大英博物館のことは知っているだろう。

しかし、そのロゴマークを思い浮かべることができるだろうか?

こんな超有名な施設であっても、そのロゴマークとなると大半の日本人は、

「見たことがあるかどうかすら分からない」というレベルだろう。

 

佐野氏の場合はどうだろう?

もちろん、佐野氏はプロのデザイナーであり、

一般の人よりはるかに多くのデザインを意識的に見ているだろう。

 

しかし、たとえプロでも、

世界中で日々無数に生み出されるデザインの全てをチェックすることは不可能だ。

日本で決して有名とは言えない劇場のロゴマークを、

佐野氏が見たことがあるに違いない!と断言できる人は、

いないのではないだろうか。

そして、それを証明する責任があるのは、ドビ氏側なのだ。

 

本当に似ているのか?

著作権侵害だと認められるための3つ目の要件が

「自分の作品と相手の作品が似ている」ということだ。

 

Aという作品と、Bという作品が、本当の意味で似ていると言えるのか?につていは、

他の記事でも多く扱うので、ここでは簡単に述べるに止めたい。

 

著作権的に「似ている」と言えるためには、

単に「アイディア」の部分が似ているということではダメで、

芸術性の現れた「具体的な表現」の部分が似ていないといけない。

そうしないと、

「キリストが弟子と最後の晩御飯を食べているシーンの絵」が一度描かれてしまうと、

もう他の人は描けなくなってしまう。

 

ドビ氏の作品がそもそも著作物ではない以上、

「似ている?似ていない?」を議論すること自体ナンセンスなのだが、

仮に著作物だったとして考えよう。

ドビ氏のデザインが佐野氏のエンブレムと「似ている」と言えるためには、

具体的な表現の部分が似ている必要がある。

単に「T」の文字の一部を反転させるというアイディアが似ていると言っても通用しない。

もし裁判で争われたとしたら、

四角形の縦横の比率、パーツとパーツの間隔、弧の描き方の角度、色づかい、

円形の扱い方、全体的なバランスのとり方・・・・

といった具体的なレベルで一致しているかどうかが問われることになっただろう。

この2つのデザインが、そのレベルで一致しているのか?

私は一致していないと思う。

 

ドビ氏はなぜ無謀な戦いを挑んだのか?

以上、3つのポイントの全てでドビ氏側に不利なことを見てきた。

この3つ全てで❝奇跡の大逆転❞を起こさない限り、

裁判でドビ氏側が勝つことはないのだ。

絶望的なほどに、ドビ氏の方が分が悪い。

 

なぜドビ氏は、こんな無謀な戦いに挑んだのか?

 

ネット上では、

「売名行為だ!」

「和解金目当てだろう!」

といった発言・憶測も多く見られた。

 

しかし、私は違うと思う。

ドビ氏も歴史ある劇場のロゴを任されるほど実力のあるデザイナーだ。

少しでも良い作品を作りたいと努力するクリエイターの一人なのだ。

ドビ氏が声を上げたのは、売名や和解金などの❝不純な❞目的ではなく、

「パクられた!くやしい!」という、

クリエイターとしての素朴で自然な思いがあったからだと思う。

私はドビ氏のクリエイターとしての純粋な気持ちを信じる。

 

著作権の世界では、こんな事例は結構ある。

実績のある作家(「先生」と呼ばれる人が多い。そして、年配の男性が多い)が、

「パクられた!著作権侵害だ!」と声を上げ、

最終的には著作権で勝てないことが判り、訴えを取り下げたり、

あるいは逆に謝罪する羽目になったりする事例だ。

(いずれ記事で取り上げたい)

必死に考えて生み出した作品だからこそ、思い入れがあり、

「こんな作品は、自分にしか生み出せないはずだ」と考えてしまう気持ちは分かる。

しかし、純粋な気持ちだけでは、著作権の世界で戦えないのだ。

 

ついに、組織委が会見

さて、話を戻そう。

8月5日、ついに大会の組織委員会(以下「組織委」)は、佐野氏と一緒に記者会見を開く。

著作権的には圧倒的に有利な状況の中、組織委はどのような会見をしたのか。

あれだけの騒動になったのだから、「この会見で何か重大なミスをしたのでは?」と

考えたくなるが、そんなことは全くない。

 

組織委は以下の説明をした。

「先方(ドビ氏側)は商標を取っていなかった」(←やっぱり)

「選考過程において、デザインナーには二つの課題をお願いした。

 オリンピックとパラリンピックのエンブレムが、

 ひと目見て違うが関連性を持つと分ること。

 そして、グッズなどへの展開力、メディアへの拡張性を持つこと。

 この2つの条件を満たした素晴らしいデザインが佐野氏のデザインだった」

 

そして佐野氏の説明はこうだ。

「制作にあたり、まずは「TOKYO」の「T」の字に注目した。

 そして、世界で広く使われている

 「Didot」という書体と「Bodoni」という書体の特徴を生かそうとした。

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 画面を9分割し、組み合わせることで

 オリンピック、パラリンピックのエンブレムを作った。

 二つのエンブレムは全く同じ設計になっており、

 二つの大会が同等であることを表現している。

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 また、同じデザインでアルファベットや数字を作り、展開できるようになっている。

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 ドビ氏のデザインとは、デザインに対する考えが全く違い、全く似ていない」

「自分はベルギーに行ったこともないし、そのロゴを一度も見ていない」

 

これに対し、記者からは

「デザインの考え方が違うといっても、多くの人は似ていると評価している。

 デザインのプロだけでなく素人にも分かってもらう説明が必要では?」

といったニュアンスの質問も複数あがっていた。

 

会見は良かった!

8月5日の組織委と佐野氏の会見を、私は評価している。

論点が商標権から著作権に移った点にしっかりと対応し、

先に挙げた著作権侵害を判断するときのポイントを押さえた内容になっているからだ。

 

まず、世界中で使われている「T」という書体を元に制作したことを説明している。

同じような書体の「T」と「L」で構成されているドビ氏のデザインが

「そもそも著作物じゃないでしょ?」ということを暗に指摘している。

また、制作の過程を説明するとともに、

ドビ氏の作品を見たことがないと述べることで、

「ドビ氏のロゴを見た上で制作した」という可能性を完全に否定している。

著作権侵害の3つの条件のうち、1つ目と2つ目をしっかり押さえている。

(そもそも著作物ではないのだから、3つ目の条件で争う必要はない)

これだけ説明していれば、十分だ。

 

たしかに

「組織委に当事者意識が感じられなかった」といった感想や、

「あれでは一般の人の理解は得られない」といった批判もあった。

「組織委の当事者意識」という観点では、その通りかもしれない。

 

しかし、あれ以上に「一般の人を納得させる説明」というものがあり得るのか?

そもそも佐野氏が「見たことがない」と言っているのである。

それ以上に何を説明しろというのか?

 

たしかに著作権や商標権の仕組みは分かりにくいかもしれない。

しかし、それは制度の問題であって、

組織委、ましてや佐野氏の責任では断じてない。

 

サッカー選手に対して

オフサイドのルールが分かりにくい。もっと観客に分かるように説明してください」と要求するスポーツ記者はいないだろう。

そんなことを言うと

「私はプレイヤーなのでルールに従うだけです」と言われるか、

「あなたもプロなら、もう少し勉強してから来てください」と笑われるだけだ。

佐野氏に説明を要求した記者は、これと同じことをしているのだ。

(「一般の人を納得させる説明」についての私案については、

 この連載の最後に触れたいと思う)

 

会見の翌日、ドビ氏は

「結果的に2つは極めて似ていて、どうやって創作したかではなく、結果が大事です」

とコメントしていると報じられた。

このコメントを見ても、

ドビ氏が「著作権侵害の3つの条件」を全く理解していないことが分かる。

 

この時点では、組織委はまだまだ盤石の構えだったのだ。

しかし、この会見で「勝負あった!」とはならなかった。

ドビ氏に続々と❝援軍❞が現れるのだ。

援軍の第一陣が、「サントリー・トートバッグ騒動」である。

次回は、この問題について見ていこう。

 

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